越後丘陵公園 秋のコスモスまつり
2020年1月28日(火)まるち
一月も終わりに近づいてきました。受験の時期でもあり、その少し先には卒業など、何かと忙しい時期かもしれません。
そして、十八歳の春といえば、高校を卒業後の人が多いのではないでしょうか。その後、大学や専門学校などに進学をしたり、就職をしたり、進路は人それぞれ。
自分はといえば、東京のデザイン専門学校に進学をしつつ、学費と生活費のための新聞配達の仕事をする新聞奨学生となりました。
その新聞販売店では、自分と同じような新聞奨学生の学生さんたちが他にもいたのですが、そのときの先輩にあたる男子学生さんたちから
「お前は苦労を知らない。」とか「何も考えていないだろう。」などと言われました。それに対し自分は反論はせず、「苦労なんて知らない。」、「何も考えてない。」と言い返したのです。
苦労をしている人がすごくて、苦労を知らないことが悪者のような言い方が、自分には気に入りませんでした。自分のことを何も知らない人に、そのように言われて面白くありませんけれど、反論をすることも面倒です。あの頃の自分は、自分の気持ちを言葉にするということができなくて、言えなかっただけかもしれません。
それに何をどのように受け止めるのか、それはその人の自由。だから、自分が苦労を知らないと思ったとしても、それは仕方がありません。けれど、今になっても思い出すということは、自分が根に持っているからなのでしょう。そのせいでしょうか、苦労という言葉に妙な反応をしてしまう自分です。
何より、自分は苦労なんてしたくありません。苦労はひたすらしんどそうですから。
苦労ではなく、努力をだと思うのです。努力はしんどい中にも楽しさや面白さが含まれていると思いませんか?辛いだけでなく、前向きな気持ちも含まれているというのでしょうか。
どうせ同じことをするのなら、しんどいことよりも、楽しくて面白いことのほうがいい。
とはいうものの、実は努力という言葉も使いたくありません。努力を否定するつもりではありませんが、努力という言葉が自分には重く思えてしまうからです。
そうではなく、重さを感じさせないで、軽やかに走るように、自分が興味を持ったことを適当に楽しんでいるうちに、いつの間にか身に付いているとか、何らかの形になっていれば、それでいいと自分は思うのです。
それは苦労ではありません。努力をしているわけでもないのです。自分にとって必要なことを、やりたいからやっているといったところでしょうか。
自分にとって、苦労や努力という言葉は、自分のやる気を失くす言葉なのです。だから、避けたい言葉。知らなくていい言葉。
自分がしたいからする。興味があるから、自分に必要なことだから、面白いから、楽しいから、したいことをする。それだけです。
国営越後丘陵公園 秋のコスモスまつり
--------- ここから広告 ---------
--------- 広告終わり ---------