2007年11月10日(土)
あるテレビ番組を見ていたとき、空気を読めない人がどうのこうのと番組中に議論?をしておりました。例えばある小学生は空気の読めないということでそれがいじめになるとか、空気が読めないことで周りから嫌われてもいいのか?などなど、空気が読めない人に対する批判的なことが多かったと思います。
空気が読めないことをまるで悪いことのように扱うことそのものが、いかがなものかと自分は思わずにはいられないのでありました。
本当に空気を読むことができない人もいるかもしれません。しかし、空気を読むことができていても、その空気に自分がどのように対応したらよいのか迷ったり悩んだり、わからない人もいるのではないでしょうか。
あるいはわかっていても、その空気がその人にとっては苦しくて辛いなものだったり納得のできないことだっり、何らかの理由があって対応したくてもできないことだってあるかもしれません。
自分は周りの空気に対して自分がどのような反応をすればよいのかわからず、その対応ができなくて周囲から馬鹿扱いされてきました。ときにはその空気をぶち壊してきたことがあるため、世間からは自分なんてすっかり嫌われ者です。おかげでたくさんいじめられました。嫌われ続けて数十年。嫌われ者のプロです。わっはっはっはっはっはっはっはっはっはっはっ。
嫌われることには慣れておりますが、壊してばかりではさすがにマズいと自分も思いました。だから周囲の空気に対しての反応が不十分でも壊さないように、自分なりに気をつけてきたこともあって少しはましになったところはあると思います。だけど、空気の読めないことが悪いことのように思われる今の社会に自分は今も納得していません。
その番組では空気の読めない人のことを、それは「個性」という表現をしておりました。個性という表現がいいのかどうか自分にはわかりませんが、そのような一面もあるのでしょう。だけど、何かちがうような気がします。
空気の読める人たちが、空気の読めない人を批判することは仕方がないことかもしれません。それならば「空気を読める人」が、その「空気を読めない人」の空気を読んであげてはいかがですか?批判するだけではなく。空気が読めるのであれば簡単でしょう。
空気の読める人たちは、ある一定の基準を満たした人や事柄に関しての空気を読むことはあたりまえのようにできていると思います。だけど、その一定の基準から外れた人や事柄に対しての空気を読むことができていないのではないでしょうか。「空気を読めない人」の空気をはじめから読むつもりなんてない。それなのに批判だけはする。
「空気の読める人」自身は空気が読めると思い込んでいるかもしれませんけれど、読めていない空気があるかもしれません。空気が読めることに優越感を持ち、本当の意味で空気を読むことができていないことだってあるかもしれないのに。
ちなみに自分は空気の読めない嫌われ者です。空気が読めなくても仕方がないと開き直って生きております。だから自分は駄目なのかもしれませんけれども。
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