まるち話+2003年3月10日(日)
結婚はしたけれど、結婚なんてする必要はなかったな〜と思うこともしばしば。
だって、まず名字が変えなければいけない。それまでの数十年の自分の人生を生きてきた姓を、結婚なんて制度のために、なぜ捨てなければいけないのだろう。いつになったら夫婦別姓になるのだろう。
「名は体を表す」大事なものなのに、結婚という制度で変えなければいけないのは何か変だ。それまでの人生を否定されているような気持ちになる。
結婚相手の配偶者さんは個人事業所を営んでおり、取引先の方と仕事の打ち合わせをすることもある。そこに居候している自分は、その場に居合わせることもあるわけだ。大抵の場合は大人しくしているのだが、まれに話しをすることもある。そういうときに「奥さん」と呼ばれてしまう。
世間一般の常識からすれば、旦那の妻を「奥さん」と呼ぶことは間違ってはいない。
間違ってはいないけれど、旦那は名前で呼ばれるのに、妻は「奥さん」と名前ではない。「奥さん」は他人の妻の尊敬語と国語辞典には書いてあるけれど、それって一人の人間としてではなく、その他大勢の中に含まれてしまうだけなのだ。「奥さん」はおまけじゃない。
そう、女性は結婚をすると名前がなくなってしまう。
結婚するまで、そのことに気付かなかった自分は心底馬鹿だと思う。自分の名前が変わる、名前がなくなる。そのことがこんなに嫌なものだとは想像できなかったのだ。自己顕示欲が強いただの我がままなのかもしれないけれど、自分の仕事と人生を考えると、旧姓の方がずっといい。
決して珍しい名前ではないけれど、一本の芯が真ん中に通った意志の強そうな名前が、単純に好きなのだ。
それを失ってしまった。
結婚なんてするんじゃなかった。
「恋は盲目」とはよくいったものだと感心してしまう。あの頃は本当に何も見えていなかった。自分にとって何が大事で、どう生きていきたいのか、自分の人生というものを冷静に考えることができなかった。自分にとって大事なのは、結婚ではなく、仕事なのだ。そのことをもっと早く気付くべきだった。
結婚は後になって後悔しないように、もっと深く真剣に考える必要があるのだ。
配偶者さんは、うらやましいほどの才能を持っているし、チャンスさえあればもっともっと飛躍できるだろう。それこそ住む世界が違う。それに対して自分はどうかというと、配偶者さんの足を引っ張るマイナスの要素だ。配偶者さんを苦しめているだけのような存在。だから名前のことも含めて結婚したことを後悔している。
大多数の人から見ればくだらないことかもしれない。だけど、生きて行く上で名前がなくなったら大変困るのだ。
そもそも「結婚してしあわせな家庭を築きたいっ!」などという願望を持ったことが一度もなかった。むしろ、バリバリのキャリアウーマンになって、男社会に殴り込みをかけられるくらい強くなりたいとずっと思っていた。
世の中には、結婚をしてはいけない人もいるのだ。
その後、離婚をして現在は独身です。気楽で自由で自分には一人が合っていると実感せずにはいられません。